商都ものがたり

更新日:2020年01月31日

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秀次が築いた商業のまち

自由商業に夢を与えた豊臣秀次

 鶴が翼を広げたような姿から、鶴翼山とも呼ばれる八幡山。その頂に八幡山城跡があります。
 信長が本能寺の変に倒れた後、18歳にして43万石の領主となった豊臣秀次。居城を八幡山と定め、築城に着手すると同時に、縦12筋、横4筋の基盤の目状に整然と区画された城下町を造成しました。また、軍略上の必要から要所に寺院を移築しました。
 自由商業都市としての発展を目指した秀次は、旧安土城下や石寺の商人、職人たちをすべて八幡に呼び寄せたほか、県内はもとより、各地から有力な商人や技術者を集めました。そして、楽市楽座を取り入れ、「掟書十二ヶ条」を公布。琵琶湖を往来する荷船を寄港させるため、全長6キロメートルにも及ぶ運河「八幡堀」を設けました。
 八幡山城在城は、わずか5年間という短さでしたが、秀次は近江八幡の商都としての繁栄の基盤を築いたのです。

豊臣秀次の絵

豊臣秀次 京都・瑞泉寺所蔵

八幡山下町中掟書の写真

八幡山下町中掟書

今も息づく商人の心意気

いまも古い商家が残る落ち着いた町並み

 八幡商人の活躍により、多くの人や物資が行き交った八幡堀界隈。八幡山を望む新町通りや大杉町通りなどには、江戸中期から明治にかけて建てられた多くの商家が今も大切に保存され、当時の面影を残しています。重要文化財の旧西川利右衛門邸をはじめ、安南(現在のベトナム)交易に活躍した西村太郎右衛門の屋敷跡に建つ市立資料館など、貴重な資料とともに八幡商人の降盛や文化に触れることができます。白壁の土蔵や見越しの松など、かつての賑わいがふとよみがえるような、落ち着いたたたずまいが残っています。

斜めからの西川甚五郎邸の外観写真

西川甚五郎邸

旧西川利右衛門邸斜め上部から新町通りをのぞんだ写真

旧西川利右衛門邸から新町通りをのぞむ

天秤棒一本で、海外にも販路を築いた八幡商人の活躍

 江戸時代、近江を本拠地に他国で活躍する商人を近江商人と呼びました。その出身地は、主に湖東三郡と呼ばれる蒲生郡、神埼郡、愛知郡に集中しており、なかでも近江八幡や日野、五個荘からは数多くの有力商人が出ています。
 近江商人の中でも、最も早い時期から商才を発揮したのが八幡商人でした。楽市楽座のもと、活発に商売をしていた八幡商人は、八幡山城の廃城で町が幕府領になったのを機に、全国へ行商の旅に出かけました。やがて、いち早く江戸日本橋に店を構え、「八幡の大店」と称される大型店舗経営に成功。特に西川甚五郎、西川庄六、森五郎兵衛は御三家と呼ばれるほどの実力を誇りました。
 八幡商人が扱った商品は畳表、蚊帳、数珠、灯心など。近江や上方の地場産業の産物を関東へ、関東・東北の原材料品を上方へ流通させる商法は、「三方よし」の家訓が示すように、双方の産業発展にも大きく貢献しました。
 峠が険しければ険しいほど、行商に行く商人の数は少なくなると、積極的に活動した八幡商人。その商人魂は、いまも商売の基本として大切に脈々と受け継がれています。

蚊帳を吊る女性や、着物をたたむもの、蚊帳の中に座る女性らの絵

二代西川甚五郎が考案した萌黄蚊帳

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